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神戸家庭裁判所 昭和35年(家)602号 審判

申立人兼事件本人 相田孝道(仮名)

主文

申立人が父亡藤山正一郎(死亡前の本籍、神戸市兵庫区小河通○丁目○番地)の氏「藤山」を称することを許可する。

理由

本件申立の要旨は申立人は現在の母の氏「相田」を称しているが、父方祖先の祭祀を主宰したいので、その氏を死亡した父の氏「藤山」に変更することの許可を求めるため本件申立に及んだというのであり、別件(当庁昭和二六年(家)第八二二、八二三号)記録編綴の戸籍謄本、本件記録編綴の戸籍謄本、調査官の調査報告書及び申立人に対する審問調書によれば次のような事実が認められる。即ち

(一)  申立人は父亡藤山正一郎(死亡前の本籍、神戸市兵庫区小河通○丁目○番地)と母相田きく子との間の長男として生れ父母の氏「藤山」を称していたが、昭和二十年六月二十一日父が死亡し母が種市国松と再婚したので申立人は国松の養子となつた。

(二)  ところが昭和二十六年七月十六日母が国松と離婚したので申立人も同人と離縁して復氏したが、その後母の手で養育されることとなつたので同年十一月二十日離婚により復氏した母の氏を称する入籍届出をし爾来母の氏「相田」を称し母と生活を共にしていたが十七歳頃から母の膝下を去り独立の生活を営んでいる。

(三)  ところが最近父方の親類から父方祖先の祭祀を申立人が主宰するよう勧告を受け(その理由は申立人の父は前戸主藤山作太郎の長男でありながら作太郎より先に死亡したので昭和二十三年二月二十七日作太郎死亡の際申立人が家督相続をしているし又父の男兄弟も現在全部死亡している等の点にあると思われる)申立人もこれに同意して本件申立に及んだ。

(四)  申立人の父方祖先の祭祀は現在申立人の叔母が主宰しているが将来申立人が主宰することには叔母も同意している。

よつて考察するに上記認定事実によれば本件において申立人は死亡した父の氏を称することの許可を求めているので先ず死亡した父又は母の氏を称することが許されるか否かの点を検討しなければならないが、この点については従来積極説消極説の両説があり消極説が多数の意見である。そこで先ず消極説の論拠に対する批判を試みよう。

(一)  消極説の中には民法第七九一条の文理解釈から死亡した父又は母の氏を称することを否定する見解があるが、民法第七九一条の文理解釈のみから子が死亡した父又は母の氏を称することを否定するのは困難である。

(二)  次に消極説の中には旧法の所謂家名としての氏から単なる個人の呼称にすぎなくなつた新民法の氏の性格上父母死亡後の子の氏変更は許されないとする有力な見解があるが、この見解は二様に解釈される。氏は単なる個人の呼称であるから父母死亡後は子が称すべき父母の呼称自体消滅するとの意味に解するならばそれは余りにも形式論にすぎる。

恐らくこの見解は氏は単なる個人の呼称であるから父母死亡後の子の氏変更を認めると氏に旧法の所謂家名観念を与えるおそれがあるとの意味に解すべきものと思われるが、果して新民法における氏が単なる個人の呼称にすぎないものといい切れるであろうか。

又新民法における氏から家名的観念が完全に払拭されたといえるであろうか。氏の呼称性即ち氏が個人の同一性認識のための表象であるという点のみを捉えるならば成程氏は個人の呼称といえるであろう。だが氏の持つ呼称性は時代と場所を問わない氏の通有性であつて、旧法における氏も新民法における氏もこの点においては何ら異ならないし又この点では氏と名との間にも異なるところはない。従つて新民法における氏が単なる個人の呼称にすぎないと解する見解もかかる論拠に立脚するものでないことは明かである。

新民法における氏が単なる個人の呼称にすぎないとの見解は恐らく改正親族制度が個人にまで分解され完全に個人制度化したとの論拠に立脚するものと思われる。成程新民法の下においては家族制度は法的に解体され夫婦親子は家の拘束から解放され夫婦親子間も各自平等同権の関係となつている。従つてかかる観点からすれば改正親族制度は最早完全に個人制度化されたようにもみえる。だが他面新民法の下においても夫婦は互に同居し協力扶助すべき義務を負い又親子の間も未成熟子と親との生活保持的、保育的関係は成熟子と親との関係と本質的に区別されている。かかる意味においては改正親族制度も未だ個人単位に分解されることなく夫婦の扶助的生活共同態と未成熟子と親との保育的生活共同態を基本単位とする小家族の段階に止まつているとも解される。だがいずれにしても改正親族制度は基本的には旧い家族主義的色彩が払拭され個人的性格がかなり高度に顕現されていることは否めない。従つて改正親族制度の基本的性格乃至構造(以下実質面と略称する)から氏の意義乃至性格を理解する限り新民法における氏は最早家名的性格乃至観念を持たないものといえるであろう。そしてこのように親族制度の実質面から氏の意義乃至性格を理解しようとする態度は氏が元来親族制度の名であり形式である点よりすれば確かに正しい方法であり、従つて又氏に関する実定的規定の立法もその時代の親族制度の実質面に符合するよう為されるべきものであろう。だが現実の立法となるとしかく簡単にはゆかない。親族制度の実質面と形式面である氏の実定的規定との間に発展史的、時代的ずれを生じることがある。改正親族制度はその形式面たる氏及び戸籍の面において伝統的国民感情との間にかなりの妥協をしていることは周知の事実である。

従つて改正親制度もその実質面と形式面にかなりのずれを生じている。そこで実質面を重視するか形式面を重視するかによつて新民法における氏の理解にも著しい相違を生じる。新民法における氏の理解について証論が紛糾する原因もここに存するものと思われる。仮に改正親族制度が完全に個人制度化されているものと解し氏を単なる個人の呼称にすぎないものとすると夫婦の別氏を許さず親子の別氏も婚姻、縁組等特別の事情がない限り認めないとする法律の規定は理解し難いものとなる。又改正親族制度が夫婦の扶助的生活共同態と未成熟子と親との保育的生活共同態を基本単位としていると解し氏をこれらの共同態の呼称だと理解したとしても氏及び戸籍の実定的規定の上では親子同氏が未成熟子と親の保育的生活共同態に限られていないという難点に逢督する。従つて氏及び戸籍に関する実定的規定の面からは夫婦同氏、親子同氏の原則によつて氏は個人の呼称であると同時に夫婦、親子の名称であると解せざるを得なくなる。しかのみならず改正親族制度の実質面からすれば氏は最早家名的性格乃至観念を有しないものと解せられるにも拘らず氏と戸籍の実定的規定の上では氏から家名的性格乃至観念を否定することはある。新民法は「個人の尊厳と両性の本質的平等」の原理に基いて家族制度を廃止しながら家名としての氏に執着する伝統的国民感情を無視し得ずこれを妥協的に容認したといわれる。従つて家名として適用して来た「氏」は意味内容を異にしつつもそのまま新民法に引継がれている。個人名となるべき氏について依然として夫婦同氏、親子同氏の原則が維持され、親と子が氏を異にするときはこれを同じくする途を拓き、かくして親から子へ子から孫へと同一の氏が存続するように仕組まれている。又家籍として通用して来た「戸籍」もそのまま引継がれ、夫婦毎、親子毎別戸籍、夫婦、親子同氏者同戸籍の制度が採られている。

婚姻、縁組の解消の場合の復氏の制度に至つては余りにも旧い家籍復籍制度に直結しすぎている。復氏には祭祀返還の効果も結びつけられている。かくして氏及び戸籍の実定的規定の上からは夫婦、親子に関する限り新民法の氏は旧法の氏とあまり変らないもの、いいかえるならば夫婦、親子の関係に縮少された意味での家名、家籍的性格乃至観念を有するものといわざるを得なくなる。成程家族制度を廃止し高度に個人的性格を顕現している改正親族制度の実質面からすれば氏に家名類似の性格を与えることは極力避けるべきであろう。だが新民法が氏と戸籍の形式面において家族主義的現実と妥協している限り少くとも形式面においては氏から家名的性格を払拭し去ることはできない。氏は実を失つた家族制度の脱け殼だと評されているが実を失つても脱け殼が残つている限り氏から家名的観念を抜き去ることができないのは当然であろう。改正親族制度の実質面を重視し氏を個人主義的に理解しようとする見解が氏の実定的規定の解釈についてもその態度を貫こうとして結局立法論的解釈に陥つたり新民法の妥協的態度の非難に終つているのはこの故であろう。そしてこのような革新論者の立場こそ却つて国民の抱く法的確信に背き、ひいては裁判に対する国民の不信を招く結果となりはしないだろうか。立法は所詮妥協である。家の名を残したいという国民感情を全面的に阻止するような法律をつくつてみたところでこのような国民感情は容易に窒息するものではなく、却つて剌激を受けて何らかの脱法的手段を見出したり或は因襲的威力を利用してその目的を達するようになる。このような意味において新民法が原則として氏から法律効果を切離し家族制度廃止の精神を実質的に無意味ならしめないような配慮をした上で因襲的国民感情を妥協的に容認した態度は已むを得ないものとはいえても決して非難されるべきものではあるまい。かように新民法の妥協的態度が非難されるべきものではない以上我々は妥協を妥協として容認し静かに因襲的国民感情の清算を待つほかはないであろう。

以上述べた如く氏及び戸籍の実定的規定の上から氏の家名、家籍的性格を否定し得ず而も新民法の妥協の趣旨からもこれを容認せざるを得ない以上父母死亡後の子の氏変更も氏に家名的観念を与えるおそれがあるとの理由でこれを拒否することはできまい。父母死亡後の子の氏変更が氏に家名的観念を与えるおそれがあるから許されないとするならば同一呼称で異氏の関係にある親子間の子の氏変更が許されるのは一体何故であろうか。同一呼称で異氏の関係にある親子間の子の氏変更こそ旧い家籍観念に基くとしか考えられないのに実務上はかかる場合の子の氏変更が認められ又消極説(父母死亡後の子の氏変更についての前掲消極説、以下同様)もこれを容認している。尤も消極説の中にはかかる場合の子の氏変更を許されない見解もあるがかかる場合の子の氏変更を拒否することは現行法の解釈上困難である。又消極説の中にはかかる場合の氏変更は子を親の戸籍に入れたいという以外に実益のある場合に限るべきだと解する見解もあるが、子を親の戸籍に入れたいという以外の実益は考えられない。家名的観念を与えるおそれのある子の氏変更は許されないとする消極説の矛盾を示す一例であろう。

(3) 次に消極説の中には民法第七九一条が設けられたのは通例の場合親と子は現実に一の生活共同態を構成しており、従つて同一の氏を称することが自他共に便宜だとの趣旨によるものであるから現実に生活を共にし得ない亡父母の氏に変更することを許す必要はないと解する説があるが、民法第七九一条の立法趣旨をそのように狭く解することには疑問がある。

思うに氏が単なる個人の呼称にすぎないものとして氏の個人化を徹底するならば民法第七九一条自体必要のない規定となる筈である。従つて民法第七九一条は親子の間ではできるだけ同一の氏を称したいという国民感情との妥協によつて設けられ過度的立法であると解するほかはなく、一般にもそのように解されている。ところで親子の間でできるだけ同一の氏を称したいという国民感情は現実に生活を共にする親子の間に限られるものではない。現実の共同生活関係の有無に拘らず親子が氏を同じくしたいというのが現実の国民感情であろう。然らば民法第七九一条はこのような国民感情を現実に生活を共にする親子の間に限定して容認したのであろうか。この疑問は新民法の採用する親子同氏の原則が親子の生活共同を要件とするものであるかどうかを究明することによつて決せられるものと考えられるが、新民法の親子同氏の原則は親子の生活共同とは無関係と解される。親子同氏の原則が親子の生活共同を要件とするものであるならば親子が現実に生活共同態を構成していない場合或は構成しなくなつた場合における親子異氏の原則若しくは異氏選択の自由を承認しなければ一貫しない筈であるのに新民法の規定はそのようにはなつていない。例えば新民法は子の出生前に父母が離婚したり父母の婚姻が取消されたり、又父が死亡したりした場合には子は出生によつて母の単独親権に服し原則として母と生活を共にするにも拘らず離婚、婚姻の取消又は父の死亡の際における父母の氏を称するものとしている。従つて生存配偶者である妻が婚姻前の氏に復した後婚姻解消の日から三〇〇日以内に子を生めばその子は実際養育監護に当る母の氏を当然には称することができず、婚姻解消当時の父母の氏を称しその当時父母の属していた戸籍に入籍することになる。又戸籍事務の先例によれば離婚により復氏しなかつた父又は母が子の出生前に再婚や養子縁組によつて氏を改め離婚当時の戸籍に在籍していない場合にも出生子はやはり離婚当時の父母の氏を称しその当時父母の属していた戸籍に入るものとされている。このように新民法の親子同氏の原則が親子の生活共同と没交渉である限り民法第七九一条の子の氏変更の場合に限つて親子の生活共同を要件とすべき理由はないから結局民法第七九一条は親子の生活共同の有無とは無関係に親子が同一の氏を称したいという国民感情を容認したものと解するほかはない。

かく解することによつて始めて子が成年に達し親と別個の生活を営む場合や生活を共にしない父に認知された子の氏変更を認める実務の取扱も是認せられ得るであろう。そしてこの趣旨を徹底するならば民法第七九一条の適用は更に父母死亡後にまで拡張されるべきものであろう。尤も設例の場合に氏変更が許されるのは父又は母の血族親族団に属することの表示に伴う社会的経済的利益があるからだと説く学者もあるが、そのような利益が子の氏変更の要件になるとするならば父母生存中の場合と死亡後の場合とで取扱を異にすべきではあるまい。

問題は民法第七九一条の適用を父母死亡後にまで拡張することが新民法の妥協の限界を超えるか否か即ち新民法が親子同氏の原則を父母死亡後にまで認めているかどうかの点に存するが、少くとも氏に関する実定的規定の上では親子同氏は生存親子に限定されるものではないというのが現行法の建前ではなかろうか。例証として婚姻、縁組の解消した場合の復氏の問題を考えてみよう。一般に離婚、離縁等の場合の法上当然の復氏は身分関係消滅の公示のためであるとか、婚姻、縁組による改氏の還元であるとかいわれているが、離婚、離縁等の場合の復氏が身分関係消滅の公示のためならば婚姻、縁組の際に改氏しなかつた当事者は何によつて身分関係消滅の公示をするであろう。身分関係消滅の公示としては離婚、離縁等の事実が戸籍上記載されるだけで十分である。又離婚、離縁等の場合の復氏が婚姻、縁組による改正氏の還元であるとの説明も納得し難い。

氏が個人の呼称であるとして氏の個人化を徹底するならばむしろ離婚、離縁等の場合は復氏の自由を認めるか或は新しい氏の選択を認めるべきであつて、このことは諸外国の立法例をみても明かである。然るに新民法が離婚、離縁等の場合に法上当然の復氏を規定しているのは何故であろうか。恐らくこれは婚姻、縁組等の停止事由がない限り親子の氏をできるだけ同一ならしめようとの趣旨に基くものであろう。換言すれば新民法における離婚、離縁等の場合の法上当然の復氏は旧法の家族同家原理に基く家籍復籍に代つて親子同氏の原理に基いて認められているものと解するほかはない。而も新民法における離婚、離縁等の場合の復氏は父母生存中に限定されてはいない。このように現行法が親子同氏の原則を父母死亡後にまで認めてかなり高度に国民感情と妥協している限り民法第七九一条の子の氏変更のみを父母生存中に限定する理由はない筈である。

(4) 最後に消極説の中には民法第七九一条は戸籍法第九八条の入籍届に備えた規定であり、而も死亡によつてその戸籍から除かれ現に戸籍の存しない父又は母と同籍するための入籍は戸籍法の予定しない無意味なことだとして父母死亡後の子の氏変更を否定する見解があるが、これは論理の順序を誤つた見解である。成程民法第七九一条の子の氏変更は戸籍法第九八条の入籍届をすることによつて効果を発生するものであるが、その効果自体は民法上生じるものであつて戸籍法によるものではない。戸籍の変動はむしろ実体的な氏の取得変更の効果であり結果であるにすぎない。(この点旧法と逆である)戸籍法第九八条こそ民法第七九一条に備えた規定であるといわなければならない。このように解するならば父母と同籍し得ないからといつて子の氏変更を否定することにはならない筈であろう。先例並びに多教の学説が婚姻していて父母と同籍し得ない筈の子の氏変更を認めているのもこの故であろう。

以上検討した如く父母死亡後の子の氏変更を否定する消極説には納得し得るだけの論拠がないから当裁判所は積極説に従うこととする。

なお、終りにのぞみ本件申立の理由について検討を加えよう。

上記認定事実によれば申立人は父方祖先の祭祀を主宰するため死亡した父の氏に変更することの許可を求めるのであり、かかる理由に基く子の氏変更を認めることには異議もあろう。氏を単なる個人の呼称にすぎないと解する革新論者の立場からすればかかる子の氏変更は拒否されるかも知れない。然しながら前にも触れた如く新民法は第七五一条で第七六九条を準用し、婚姻によつて氏を改めた者が配偶者の祖先の祭祀の主宰者となつて祭具等を承継した後配偶者が死亡して婚姻前の氏に復氏した場合には姻族関係を絶たなくても承継した祭具等を返還すべきものと定めているのであつて、このことからすれば新民法は祖先の祭祀は祖先と氏を同じくする者に承継させたいという因襲的な国民感情を妥協的に容認しているものと解するほかはない。してみると本件における氏変更の理由乃至必要性も結局容認せられざるを得ないことになる。

以上の次第で本件申立はこれを拒否すべき何らの理由も見当らないからこれを正当として認容するほかはない。

よつて主文の通り審判する。

(家事審判官 角敬)

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